フィリピン慰霊祭参加、未慰霊激戦地訪問

 8月9日から8月13日の日程で、フィリピンを訪問。
 以下、訪比報告です(塩村あやかのTwitterから)。

8月9日(水)
【フィリピンへ出発】
 これからフィリピンに向かいます。ミンダナオ島のダバオ日本人戦没者慰霊祭に参加し、挨拶をします。日本人の父を持つ無国籍となっている残留2世、国会議員、市長や領事を表敬し、懇談予定。ルソン島ではインファンタの旧日本軍駐屯地で献花、近隣2市長を表敬します。私達は忘れてはいけない事がある。

【フィリピン・ダバオに到着】
 マニラから夜になりましたが、ダバオに到着。飛行機降りてビックリした!こんな横断幕でフィリピンの皆さんからの歓待を受けました。日本の戦争犠牲者の多い都市ですが、あまり日本の国会議員は来ないそうです。総領事とミレーン大使の甥の市議もご一緒とは光栄です。更に驚きが続きます。

 空港から宿までは、白バイの誘導でした。車を止めてはいけないらしく、日本ではお目にかかれない走行テクニック。凄い腕前というか、訓練だと思いました。ダバオはレベル1で大きな問題はないということですが、中部以西はレベル3の地域もあり、安心安全を守るために常に実践を重ねる皆さんに感謝です。

 信じられない偶然!右の男性は空港からの警備をしてくれた警察官です。なんと、明後日に訪問をする残留日本人孤児のお孫さんとのこと!ご縁ですね。明後日、戦中に日本人の父と引き離されたお祖母様のお話を聞きに行きますね。過去を学び、生かしていきます。同じ過ちを繰り返さないために。

8月10日(木)
【ミンダナオ国際大学】
 ミンダナオ国際大学に到着。皆さんから盛大な歓迎を受けました。日系人が運営する大学で看護など多彩な人材を輩出しています。2-3割が日系人ですが、現地の皆さんも沢山学んでいます。敷地には幼稚園からの日系人学校が併設されており、今年120周年を迎えます。戦争も経て、努力して地域に根付きました。
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 ダバオやミンダナオ国際大学の歴史の勉強をし、民族のダンスを披露頂きました。このように相互理解を深めていくことで、日系人が海外でどのように海外から日本を支えてくれているのかも分かります。何世代にも渡る地域に根差した民間外交もとても大切です。スピーチの機会も頂き、感謝です。

【日本人会】
 同じ敷地にある日系人会の事務所です。複数のスタッフが働き、現地日系人を支えています。大変に心強い存在だと思います。その後、皆さんに幼稚園や小中学校に案内を頂き、視察を行いました。夏休みなので授業の視察は叶いませんでしたが、複数の学生が私を迎えてくれ、日本への親しみを感じました。

【ダバオ市長表敬訪問】
 セバスチャン・ドゥテルテ市長を表敬訪問。前大統領の次男です。ミレーン駐日大使の甥のバビ・カンポス市議会議員に同席頂きました。日比の親交を深める事、大切です。ダバオは残留日本人2世問題の救済にも理解があります。市長残留2世問題に理解があり、安心いたしました。

【ダバオ市・地元市場】
 ダバオのドゥテルテ市長表敬の後は、地元市場の視察。日本とは全くちがう衛生環境ですが、よくも悪くもカオスを感じるのが魅力。お店の人たちの笑顔も素敵でしょう?フィリピンは収穫の季節。特にフルーツが安くて美味しい。ランブータンも10個位を選んで購入しましたが、10ペソ。約28円くらい。安い!

 明るいよね、活気があるよね、ダバオ。平均年齢が24歳!日本の46歳とは20歳も違うこともありますが、文化もあるのかもしれませんね。魚売り場を通ると「まぐろー」との声が。やはり日系人が多いのだなと思うやり取りも聞こえてきます。幾多の苦労を乗り越えてきたことを、市場からも感じます。
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8月11日(金)
【慰霊祭】
 ダバオの慰霊祭で挨拶。ダバオは日本移住者の開拓により、麻で栄えた街。当時は小さな街に2万人も日本人がいました。先の大戦で日本人は比で50万、比人は100万人も命を落とし、互いの関係は厳しいものになりました。戦後は日系人であることを隠さなければ危険に晒される時期もあり、隠れて暮らした人も少なくありません。出生届けも出していなかったり、いても戦争の混乱で書類や資料が消失したりで無国籍となり苦しむ2世達。父を知りたい、顔を見たい、自分のルーツを確認したい残留2世ももう80代です。戦争が残した課題を解決する時間はそう残されてはいません。

 慰霊祭はミンタル共同墓地で行われました。ミンタルは日本ルーツの街の名前です。「民多留」。日本人の移民が多く留まり、栄えるように願いついたと聞きました。敷地内には沖縄人慰霊碑など、日本人がいかにダバオに多く、戦争で犠牲になってきたかが分かりました。改めて心から哀悼の意を表します。

 慰霊祭では、多くの方が日本から国会議員が追悼に来たと喜んでくれました。国の都合により家族を失い、国籍取得もできない状況に少なくない日本人がいます。日系人会やNPOの尽力で前進しているものの、私達国会も前に進める応援が必要ではないでしょうか。現地の当事者も切にそれを願っています。

 ダバオ戦没者慰霊祭にて、英語と日本語で挨拶を行いました。フィリピンは多言語ですので、公用語に英語を使います。私の拙い挨拶ですが、追悼の祈りと思いが伝わりますように。全ての戦没者に向けての思いです。
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【NHK NEWS WEB】
 「終戦の日を前に フィリピン ミンダナオ島で太平洋戦争の慰霊祭」
 私のコメントもご紹介頂いています。大伯父も比のルソン島で戦死し、未だ遺骨は帰還しておりません。知れば知るほど、地獄はこの世にあると知ることになる戦争。慰霊祭の役割は慰霊だけに止まらない意味と効果を持ちます。

【日本フィリピン歴史資料館】
 ダバオ慰霊祭のあとは、日本フィリピン歴史資料館の視察。ダバオ日系人会の活動は精力的。資料館は決して大規模ではありませんが、改装も展示も前進かつ充実させています。ダバオ日系人と歴史への理解が深まります。皆さんもぜひ、フィリピンへお越しの際は、ミンダナオ島の資料館へも寄ってください。

【フィリピン残留日本人二世と対話】
 フィリピン残留2世の田中愛子さんにお話を伺いました。母はバコボ族。戦時中に日本人の父は家族に生きるために「行け」と説得し、離れ離れに。その直後、父は自決。100万人を超す比人が日本侵攻により犠牲になっており、日本人の子は戦後、筆舌に尽くし難い苦難の人生を送りました。

 当時の記憶が残り、日本語で継承できる人はもう殆どいません。田中愛子さんの存在はとても貴重です。愛子さんの日本語が流暢なのは、父が戦前から子どもは日本語で育てる、という教育方針を取っていたからです。終戦直後には、兄と姉は日本送還となりましたが、愛子さんは母と比に残りました。

 苦難の暮らしの中、日本人の子であることからの迫害から身を守るため、周囲に勧められて10代で結婚。苦しい暮らしも、愛のない結婚も、戦争が始まり、父が亡くなったから。「辛い話でも継承したい。次はもう会えないかも」と涙ぐむ田中さん。私は「また必ずきます」と約束しました。

 懐かしい日本の童謡を歌って、もてなしてくれました。日本人学校が複数ダバオにはありました。そして、父の教育方針。愛子さんは間違いなく、日本人としてフィリピンのダバオで生まれ、育ったのです。その人生の背景と軌跡を知るとき、平和の尊さや、脆さを感じるはずです。
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【フィリピン残留日本人二世宅訪問➀】
 ダバオのフィリピン残留2世のパシータマルモトさんのお宅に伺いました。父は日本人で、母はビラワン族です。戦争の少し前に父は事故で亡くなり、戦中戦後と苦労を重ねて来ました。父は亡くなり、母も再婚後に死亡しています。今回は、慰霊祭にも参加していた、兄弟とお二人にお話しを伺います。
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 当時の家族写真です。写真によって父の顔は分かりますが、2人とも幼く、父の詳細な名前や出身地が判然とせず、就籍の障害となっています。当時は日本もフィリピンも父系血統主義。父が日本人ならば、日本人となりますが、その証明書類がいま残る人はそう多くありません。政府の対応が急がれます。

 パシータ(マルモト)さんのお孫さん達です。ヒアリングを終了したあと、おもてなしをしたい、とのことで家庭料理を作って待っていてくれました。感激です!ご家族はパシータさんが時々父と亡き夫のお話が混在してしまう時、温かく笑顔で見守っている姿も印象的でした。日本と違う幸せがありますね。

【フィリピン残留日本人二世宅訪問➁】
 私が議員記章をつけて、フィリピン残留2世を訪問したには理由があります。それは、「日本の国会議員が、日本人であるあなたに会いに来た」と伝えたいからです。国に見捨てられたと感じる2世は多いと聞きます。両国が父系血統主義を取っていた当時、父が日本人なら日本人のはず。戦後78年。時間がない。

[ご本人と家族の希望により情報募集]
 フィリピン日本人残留2世のカナシロ(金城)ロサさん79歳が、生き別れた父のカナシロコウシさんと、親族を探しています。
 父は沖縄からダバオに入植し、市役所近くのメインストリートで理容師をしている時にロサさんの母と出会い、彼女が誕生。戦中に消息不明。
 ロサさんは当時まだ2歳であり、鮮明な父の記憶はありません。母は戦後の困難の中で再婚し、彼女が日本人の子である事を隠していました。彼女も経済的困難のため、若くから働いてきました。親族から事実を知らされ、以降、「生き別れた父の消息を知りたい、写真を見たい」と望んでいます。
 カナシロ(金城)ロサさんの父の情報をお持ちの方は、お知らせください。名前はカナシロコウシ、またはコシ、コウジの可能性あり。
 戦前に沖縄からダバオに行き、理髪店で働いていました。戦争が勃発し、その後、戻ることななかったとの事。
《フィリピン日系人リーガルサポートセンター》
info@pnlsc.com

8月12日(土)
【インファンタ・旧日本軍駐屯地跡】
 遂に大伯父が戦死したと記録されるインファンタに到着。ここは日本軍の旧駐屯地で、今は小学校。海軍219設営隊はコレヒドール島からマニラに入り、ここインファンタ駐屯地を目指し山越えをします。しかし、食糧難から大多数が駐屯地入りを拒絶され、山中の自活に入り、ゲリラ戦、飢餓、疫病で殲滅。
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 大伯父もインファンタの北部で戦死との記録があります。他の設営隊員と違い下士官ですから、この駐屯地に入れた可能性もありますが、いずれにしても45年5月に戦死とあります。この地で日本軍を知る90歳を超える現地女性から話を伺い、一緒に献花をしました。現地の犠牲と日本軍の犠牲を共に悼みます。
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 ミンダナオ島のダバオのホテルを6時半に出発して、マニラ経由✈️で、車で山越えをしてインファンタに。到着は午後4時くらい。10時間くらいかかりましたが、来て良かったです。ここにいた日本軍、そして現地の人の暮らしを想像したい。個人個人としては、どちらにとっても耐え難い状況に違いない。
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【インファンタ市長表敬訪問】
 インファンタ市長のフィリピーナ・グレース・アメリカ氏に表敬訪問しました。市長は車椅子です。理由は襲撃です。今は執務に影響ないところまで回復されており、力強く市政を率いています。同じ女性政治家として命をかけて職務にあたる覚悟を考えさせられました。鶴を折ってとのことでトライしました。

 インファンタの中心には私を歓迎する横断幕が!かなり驚きました。聞けば、日本側壊滅の激戦地であるインファンタに慰霊に来た日本の国会議員は私が初めてとのこと。歓待を嬉しく思うと同時に、慰霊に国会議員がまだ誰も来ていないことを申し訳なく感じました。

【インファンタ・現地NGO】
 インファンタの現地NGOを視察し、勉強と意見交換をしました。共同組合の制度で低利貸付をし、中小企業支援を行なっています。特に女性のエンパワーメントの後押となっており、どんどんと広がっているそうです。利回りも5%を超えるとのこと。成長のなせる技ですね。
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8月13日(日)
【戦争体験者面会】
 激戦であったインファンタ(現ジェネラル・ナカール)の話をお2人の戦争経験者から聞く。Bernadoina V. Mendoza(90)さんと、Abdon Rmtaquio Cuerso(89)です。メンドーザさんは戦時中この家の子で、家は日本軍の高官に明け渡したそうです。日本兵からは、概ね親切に対応されたそうです。abdonさんは日本軍に対して強い怒りをお持ちでしたが、あれは戦争だったからどうしようもなかったのだ、と許しを考えるようになったとのこと。周囲には日本兵に銃で足を打たれたりと、怖い思いをして戦中を過ごしました。銃の音、激変する環境…お話と歌を聞かせてくれ、ありがとうございました。
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 3人で犠牲となった戦没者に献花を行いました。壮絶なゲリラ戦となったインファンタ(ジェネラル・ナカール)。その時代に生きたお二人のお話を直に聞くことができたこと、宝だと思います。アレンジをしてくださいました、全ての方に感謝を申し上げます。

 こちらは、メンドーザさん宅近くで収穫したという、ミニバナナ!バナナの味がするかというと、しない!さつまいもの味とコクです!蒸してあり、ホクホクで頂きました!

 こちらは、日本の高級士官がメンドーザさんに贈ったブランケット。今も大切に保管されて展示しています。

【ジェネラル・ナカール市長表敬訪問】
 本日はジェネラル・ナカール市長を表敬訪問です。市長一家や職員までもが大歓待でした。ジェネラル・ナカール市は戦後にインファンタの一部が新市となったものです。ですので、数多くの日本兵が飢餓や疫病を含め、壮絶な最期を遂げた地で、抗日ゲリラとの激戦地でもあります。今回の訪問で、色々と分かったことがあります。

 インファンタでの戦死は、このジェネラル・ナカール市の可能性があること。資料を参考にすると、219設営隊は非戦闘部隊であり指令により自活に入ったが、下士官の大伯父は別指令で部隊での戦闘要員となり、5月20日の大激戦で死亡した記録と整合する。ということは、昨日献花をした日本軍駐屯地に彼は居た可能性が高い。

 肖像画は市の名前になっている、ジェネラル・ナカールです。先の大戦の英雄との説明がありました。彼は、戦時中に家族と共にオーストラリアに亡命するか、日本軍の捕虜になるかの選択で、愛国心から後者を選択。その後、マニラで拷問ののち、殺害されたとのこと。戦後、英雄として大切にされています

【インファンタでの追悼】
 インファンタ(ジェネラル・ナカール)の海岸です。ここは日本軍と、米国とその支援を受ける現地フィリピン抗日ゲリラが激戦をを繰り広げた場所のひとつ。双方に甚大な被害をもたらし、壊滅した部隊もあります。国にその認識はあるか。歴史が風化してしまう不安を感じます。

 太平洋戦争の激戦地フィリピン。マニラから山越えをするため、4時間かかるインファンタ(ジェネラル・ナカール)市の海岸は今も遺骨が眠るそう。ついに、私もインファンタに辿り着きました。国や国会議員の慰霊すら行われていないこの地で、せめて私が掌を合わせたい。
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 日本軍の犠牲者を埋葬した森へ、ジェネラル・ナカール市長や現地の方に案内を頂く。場所は高官が住んだメンドーザさんのお宅の裏です。墓碑は建てられず、代わりに目印となる木が植えてあるとのこと。様々な思いがある中、日本兵士の埋葬に感謝です。戦争のなかにも、人間の心を感じます。

 この木の下に日本兵のご遺骨が今もあるそうです。戦後78年が経過しました。今日まで日本から手を合わせる人が公式に来た記録はありません。国会議員として、この木の下に眠る戦没者に心からご冥福をお祈りします。現地の人も、私も忘れません。何ができるか、考えたいと思います。
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 この歴史を踏まえてなお、温かく迎えてくれたインファンタとジェネラル・ナカールの皆様に心から感謝を申し上げます。

 今回のフィリピンのインファンタでの慰霊は、現地ラジオ局からも取材がはいりました。私なりの考えを、フィリピンのインファンタとジェネラル・ナカールの皆さんにお伝えしました。
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【番外編】
 ダバオ日系3姉妹…ではなく、私、外交官と通訳です。アクティブに動いてくれ、現地状況にも詳しい。あれこれ相談をしたり、お願いしたりしました。私は日本の状況を、彼女たちはフィリピンや前任地の文化や経済の話で意見交換を行いながらの移動や視察となりました。多文化に触れることは勉強になる。

 ダバオには少数民族が複数あります。こちらはアタ族のご家族です。戦前は日本の開拓者が多く現地の女性と家族を持ちました。しかし、戦争により父は軍属となり還らぬ人も多かった。残された母子は父が日本軍側だと周囲に分からないよう、真実を隠して生きてきました。そんな時代に戻らないようにしたい。

[ダバオ市のFB]
表敬訪問をしたドゥテルテ市長の写真の横に、kadayawan villege を私も訪れたことが掲載されています。

 インファンタのお宿のマスターです。定年前は企業に勤め、日本にも何度か来たことがあるそうです。御前崎の地名も出てきました。ところで、こちらのホテルにはドライヤーはありません。皆使わないそうです。市庁舎前のオープンエアタクシー?のおじさまもとてもフレンドリーでした。動画にあります。
 動画はこちら

 フィリピンの猫の写真もシェアします。どの子もスリム…。

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